陣場台熱球録 web版 その41

白坂長栄

戦後のタイガースで美男内野手として活躍したのが白坂長栄(昭和15年卒)である。
その華麗な守備は戦後のプロ野球復興に貢献し、「牛若丸」と異名を取った吉田義男が入団するまでは遊撃手、その後は二塁手として活躍した。

白坂は一戸町の出身。実家はリンゴ農家である。
小学校時代から福中選手のプレーを見て育つ。
進路も福中野球部を選んだ。

白坂が最上級生となった昭和14年、福中野球部は昭和6年以来の岩手県制覇を成し遂げて奥羽大会に駒を進めた。

この時のメンバーには、同級に小田野柏選手の弟・小田野彰選手や、昭和初期の名投手戸来誠の弟でエースの戸来忠選手がいた。
奥羽大会でも優勝候補の筆頭にあげられたが、準決勝で青森中学に惜敗した。エースの戸来投手の体調不良が原因であった。

福中卒業後は仙台鉄道管理局へと進んだ。
応招されて戦地へ赴き、戦後は盛岡鉄道管理局で投手として活躍していた。

昭和23年、盛岡商業出身の沢藤光郎投手をエースに盛岡鉄道管理局は「全国鉄道大会」で優勝を飾った。
白坂は遊撃手兼投手として活躍する。この時の活躍がプロ入りするきっかけとなる。

タイガースの若林監督は、終戦期には夫人の実家がある仙台市に在住していた。
「盛岡鉄道に白坂長英といういい選手がいる」という噂を耳に挟み、全国鉄道大会を観戦した。そこで白坂の華麗な守備に釘付けとなり、盛岡まで来て直々にタイガース入りを口説いた。

タイガースでは実働11年、1,020試合出場 3313打数 789安打 59本塁打 360打点 通算打率238の記録を残す。オールスターにも出場、その華麗な守備でファンを魅了した。

引退後もタイガースに残りスコアラーや球団職員として活躍した。

昭和55年の福高野球部が9回目の甲子園出場時には、福中の同級生で同郷の赤坂純雄校長と50年ぶりの再会を喜び合った。
福中時代は「一戸の赤白コンビ」とも呼ばれていたそうだ。
昭和60年の10回目の甲子園にも激励に駆けつけた。

白坂は地味だが守備のプロ野球記録を持っている。
昭和25年に記録した二塁手としての最多併殺(136併殺)と最多刺殺(431刺殺)の記録だ。昭和27年にも遊撃手としてリーグ最多の89併殺を記録している。
その守備力は多くの人の印象に残り、「ゴロをとるために生まれてきた」と形容された。
複数のポジションで併殺記録を保持したことはプロ野球の歴史でも珍しく語り継がねばならない記録である。

なお、投手としても7試合に登板した実績がある。岩手県が生んだ20世紀最大のプロ野球選手といっても過言ではない。

 



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