陣場台熱球録 web版 その42

一関中学から勝利

大正7年(1918)8月末には、東北大会で優勝した一関中学に遠征して3−2で破る。この年の一関中は東北大会で優勝し甲子園大会に駒を進めていたが、「米騒動」のために大会が中止されていた。その、一関中学を撃破したことで亀田部長はたいへん喜ばれ、校長に電話し多くの生徒有志が福岡駅で出迎えた。

この頃にエースとして活躍した村田幸雄(改姓し西島幸雄)は、大正4年(1915)に入学し早くから素質を認められていた。3年生にしてエースとなり頭角を現す。大正8年(1919)には主将となり、八戸中学との試合では圧勝するまでに力をつけた。その当時の八戸中学には後の早稲田大学に進み大活躍した大下常吉氏などが在籍していた。この大下氏からは大正末に教えを受け甲子園へと駒を進めることになる。勝ち試合が多くなるに従って、部員・生徒の意気もあがり応援歌も数曲つくられるようになった。

大正12年(1923)からは、一人で他の競技部との兼部を禁止するということを打ち合わせた。野球部、柔道部、剣道部などのいずれかの部にのみ精神を傾け各部のレベルが向上し始めた。これによって、各部が毎日練習に励むようになり、後年の野球部の甲子園出場、柔道部の全国制覇へとつながるのである。


大正8年頃の野球選手


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