陣場台熱球録 web版 その44

大館中学との対戦

隣の秋田県にも明治18年(1885)頃に野球が伝わった。伝えたのは医学博士の細井修吾と言われている。秋田県最初の試合は秋田医学校で行われたらしい。

明治27年(1894)年創部と伝えられている秋田中学でも、明治20年前後には野球が行われていた記録がある。

明治30年代にはいると、秋田の野球熱が高まり秋田県知事主催の「挑戦杯」が設けられるようになる。この「挑戦杯」は、当初は秋田中学の連覇だったが横手中学、大館中学なども優勝するなど郡部の学校も台頭していた。

挑戦杯を制して波に乗る大館中学が、岩手県にその相手を求めて遠征することになった。明治42年(1909)のことである。この時の大館中学は、当時「全国の三傑」と呼ばれ東北球界では無敵を誇っていた盛岡中学を唯一破ったチームであった。

福中にも試合の申し込みがあり、天下の強豪校を迎えるとあって対策を考えた。盛岡中学出身で早稲田大学に進んでいた野々村納氏を臨時コーチに招き本格的な練習をして試合に備えることとなった。8月に対戦した大館中学との試合は2−5で敗れたが、天下の強豪校と互角の試合ができたと言うことで選手の自信につながった。

野々村納氏は、明治37年(1904)から盛岡中学の投手として活躍した人物である。当時、盛岡中学が対戦した八戸中学、大館中学、遠野中学、仙台二中などをことごとく撃破した岩手県球史に残る名選手で、盛岡中学卒業後は早稲田大学に進み遊撃手として活躍した。

この頃は今のように、学校野球連盟が組織されているわけでもなく中学のチームが実業団と試合をして入場料を徴収し、その収益で部の強化にあてることも可能で、先輩や実業団との試合は終戦近くまで行われていた(昭和50年代まで練習試合でも募金箱が設置されていた)。

 


(明治44年頃の野球部記念写真)


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