陣場台熱球録 web版 その51


忘れられぬ名投手 中津川昇二

 大正12年頃に中津川昇二投手が福中に転校してきたらしい。転校してきたらしいと書いたのは、大正10年前後の福中入学者の記録に中津川の名前が見えないためである。

 静岡県の生まれで父親の仕事の関係で転校してきた。福中に来る前は栃木県の下野中学に在籍していたらしいが、当時を知る人が居なくなった今となっては確認することができない。
 大正13年度の応援団副団長だった原田清志氏に当時の話を聞いた際に、「京谷君は栃木の下野中学からやって来た」と聞いたような気がする。京谷とは婿入り先の姓である。

 中津川が転校してきた大正12年は、甲子園予選に申し込みながら締め切りが過ぎていたために参加が叶わず悔しい思いをした年であった。後学のために東北予選を見学した際に対戦した一関中学戦に先発したが、関中に一方的に打ち込まれた。

 大正13年は福中野球部にとっては記念すべき年になった。甲子園予選に初めて参加したのである。この時からエースとして活躍したのが福中3年の中津川である。この年は東北大会2回戦で一関中学に3−9で敗れた。捕手は小坂国夫であった。予選が終わってからも精力的に地区の小学校に出向いては児童に野球の指導を重ねた。後年名投手として甲子園でも活躍する戸来誠は、明治大学進学後に雑誌「野球界」に野球の恩人として寄稿している。

 大正13年秋には歴史的な勝利投手となった。10月26日に行われた福中グランドバックネット完成記念試合で盛岡中学を4−3で退けたのである。中津川は盛岡中学を2安打に抑え、三振は16個を奪う好投だった。捕手を務めた小坂国夫とのコンビネーションも絶妙だった。

 「中津川さんと小坂さんの練習は我々の手本だった。中津川さんは一日に300球ぐらい投げ込んだ。全く気を抜くことなく投げていた。小坂さんも中津川さんの球を受けると全力で返球した。時々中津川さんが気を抜いた球を投げると、スーッと立ち上がり思いっきり投げ返す。すごい先輩たちだと思った。誠(戸来誠のこと)とバッテリーを組んでからは、小坂さんを見習ってキャッチャーも生きた球を返すことを心がけた」ち、 後年日本野球史上初の敬遠満塁策を成功させた村田栄三は懐かしむ。

  大正14年になると、中津川と小坂のバッテリーを擁して福中は春から好調だった。東北大会のダークホースと目されるようになり期待されたが、東北大会準決勝で盛岡中学に2−5で敗れた。

 進学した明治大学でも中心選手として活躍し、在学中も福中にコーチとして訪れたりもした。帰省した際には、明治大学の校歌「白雲なびく駿河台・・」を福中生に伝えた。福中でも独自に明大校歌をアレンジし「始戦歌」として歌い始めた。アレンジしたのは福中音楽部の米沢長一(後の長五郎)であった。

 明大卒業後の昭和6年には、福中のコーチとして遠野中学との因縁「石原事件」の一方の主役を演じると同時に、福中を4回目の甲子園出場に導いた。

 



(明治大学の中心選手として活躍する中津川。丸渕のメガネはトレードマークだった)


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