陣場台熱球録 web版 その58

福陵応援団物語

 「岩手の北台、天下の鎮」と誇り高く謳われる我々の母校は、20世紀が幕を開けた明治34年(1901)4月28日に、盛岡、一関に次いで県内3番目の中学校として開校した。

 その数年前の明治28年(1896)6月、臨時県議会において中学校(旧制)を増設する建議がなされ、県内各候補地で激烈な争奪戦が表面化することになった。それらの候補地の中で福岡(二戸地方)は、人口、産業経済、納税額においても最下位であった。それにもかかわらずこの地に県立中学校の建設を見たことは特筆されなければならない。

 一世紀を超える歴史の中で、場当たり的なものも含めて初めて応援団が組織?されたのは、野球部の対八戸中学戦(当時は青森県立第二中学校)でのことであったと思われる。明治35年(1902)5月のことである。戦績は不明だが大敗だったらしい。この試合では数名の有志が即席でムシロ旗に三葉の松を(みは)と読んで、「M」の印を書き石油缶などをたたいて応援した。対する八戸中学も全裸で踊り狂うなど、応援ぶりが観衆の目を引いたと伝わっている。

 大正中期にはいると、上級学校に進学している先輩たちや遠征してきた大学野球部などから多くの応援歌が伝わった。ユーモアに富んだ福中生は、歌詞の一部を作り替えてすぐに自分たちのものにする。現在でも歌われている、「あの輩は何者ぞ」「陣場の山の浅緑」「男神女神の精をとり」「それ東北の一聖地」などである。作詞は主に光藤学や奥健三などが担当した。共に野球部で活躍した先輩方である。

 大正7年(1918)に野球部は一関遠征を企てた。一関中学に試合を申し込んだのである。この年の一関中学は東北大会を制し、甲子園出場を決めたのであるが米騒動のために大会が中止された。関中の強さを見せつけようとしたが、試合は3−2で福中の勝利。その夜に行われた一関中学での懇親会では涙にくれる関中生徒もあったようだ。

福岡に凱旋するために、部長の亀田教諭は校長に電話し駅頭で出迎えてくれるように依頼した。校長もその案に同意し午後3時過ぎに生徒も福岡駅に集合させた。その時に「校歌」の指揮を任されたのが4年生の内藤正介(大正9年卒剣道選手)であった。

駅に集合するとなぜか5年生の姿がほとんどなかった。たしか、試験か何かがあって5年  生はほとんど来なかった。すると校長が内藤君が音頭を取れと言う。先輩方が時々やっていた高等学校式のアイン・ツバイ・トライの掛け声で校歌を歌った

 大正11年(1921)に盛岡中学で応援団というものが組織されるという噂を生徒の誰かが聞いてきた。この年の春には前年に北海中学に転校した内村一三も帰省し、札幌方面での野球応援合戦(北海道大学対小樽高商の定期戦など)の華やかなことを伝えた。

ならば福中でもつくってやるとなり、団長に桝田亀次郎を選出し、内藤次郎、坂下貞吉などの有志で応援団幹事会というものを組織し学校当局にかけあったが結局は公認されなかった。正式な公認は大正12年を待たなければならない


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