陣場台熱球録 web版 その61

全国的に注目された工藤投手

 学校創立70周年を目前に控えた昭和44年、福高野球部に一人の怪腕投手が出現した。大正末期から昭和40年代の後半まで、福陵野球を見続けてきた福岡の名物男・昆徳治をして「戸来誠」以上といわれたのは工藤昭雄投手であった。

 工藤昭雄投手は昭和43年4月に青森県の名久井第一中学から福岡高校に進学した。前年一戸町(一戸高校主催)で行われた「南青森北岩手選抜中学校野球大会」で名久井第一中学を優勝に導き、その才能は早くから期待されていた。

 福岡高校と一戸高校から熱心に誘われたが、父親の「野球をやるなら福岡」との言葉で福岡高校進学を決意する。

 昭和36年に8回目の甲子園に出場後は、これといった成績を残すことのできない福岡高校野球部であったが、工藤投手の入学により一躍名門復活を期待された。

 昭和43年夏は戦前からの宿敵である盛岡一高が甲子園でベスト8に入る活躍を見せ、それに続けとばかりに地元の期待は大きかった。

 秋の新人戦は盛岡一高と対戦した。甲子園ベスト8のメンバーが3人残り、歯が立たないのではないかと思って対戦したが延長13回2−3の惜敗だった。負けはしたが強豪校と接戦を演じたことで選手には大きな自信となった。

 工藤投手が怪腕といわれるようになったのは昭和44年春の大活躍(快投)からだった。春季岩手県大会で3試合連続完封の離れ業を演じ、春季では初めて福岡高校を優勝に導いた。特に決勝戦は前年夏の覇者盛岡一高を1−0で破る会心の勝利だった。春季東北大会は2−3で秋田商業に破れたが夏への期待は大きく膨らんだ。

 夏の大会は事実上の岩手県大会決勝戦といわれた初戦の黒沢尻北、続く黒沢尻工業と北上勢を撃破し、一関商工との対戦となった。

 工藤投手は、試合前から蕁麻疹に悩まされ調子があがらず1−6で破れてしまった。

 「自分が3年生の時は負けてもそれほど悔しくはなかったが、この時は3年生に申し訳が無く泣いてしまった。本当に悔しかった」と当時を回想する。

 夏には破れたが、秋には再び快進撃が始まった。岩手県大会では3試合連続完封を成し遂げ優勝し、東北大会でも1−2で弘前実業に惜敗した。

 「ともかく打てないチームでした。当時は東北大会には、各学校で打率や防御率を提出しなければならなかったので、マネージャーが何とか細工をしてチーム打率を2割3分ぐらいにしたはずです」と工藤投手のチームメイトだった小守義徳氏(内野手)は語る。

 秋の活躍で甲子園の期待は高まるが、三年生になった工藤投手は今一つ調子があがらず何か違和感を感じていた。二年生の時は何の苦労もなく思ったコースに投げることができたが、3年の春からはそれができない。投げ込むしかないと思い毎日300球以上投げ込んだ結果、肘の痛みを感じた。

 「たぶん肘の疲労骨折だったと思います。今だったら誰かが見ていて注意してくれたかもしれないけど、当時は気力でカバーするしかないと思っていました」

 夏の大会は本調子でないまま、岩手県大会の代表決定戦で盛岡商業に敗れた。

 野球部100年史の取材の中で必ずと言っていいほど出てくる工藤投手である。低めに伸びる速球は、後にプロ野球に進んで通算57勝の勝ち星をあげた欠端光則投手より速かったとも言われている。

 武運拙く敗れ去ったが、秋と春の優勝も経験し地区のファンや福高の生徒に「甲子園」という夢を抱かせた。忘れられない名選手である。






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