浄法寺か秀衡か その1

 岩手県の南北に漆器の文化が伝わっています。浄法寺塗と秀衡塗です。

 秀衡塗というと菱形の金箔と模様が特徴的ですよね。平泉文化を花開かせた藤原秀衡の名が付いているので、古くから秀衡塗りがあったように誤解されますが、秀衡塗りという呼び方が一般的になるのは大正時代からのようです。

 古くから「秀衡椀」と呼ばれている物は、なぜ「秀衡椀」の名がつけられたのかは分かっていません。産地も特定されていないと思います。 浄法寺椀は瀬戸内寂聴尼で知られる天台寺がルーツであることが分かっています。藩政時代には各地へ漆器を送り出した記録も残ります。中尊寺と天台寺の宗教的関係を考えれば、同じような文様の古い漆器が存在していたことは歴史的にも何らかの繋がりがあることを暗示していると思います。

 よく間違われるのが秀衡塗と秀衡椀です。秀衡塗という名前は大正時代に当時の盛岡市長によって付けられた名前で、もともと盛岡の名産品として始まりました。秀衡椀は古くから存在していますが、秀衡椀の歴史=秀衡塗ではないのです。

 

古い秀衡椀は確かに現存しているのですが、その歴史を綴った古文書などはほとんど存在していません。何かの資料に、秀衡椀は元々は南部椀と言われていたと会ったように思いますが、定かではありません。古い秀衡椀は岩手県南地方の旧家やお寺などで所蔵されているものが多く、岩手県立博物館や一関市博物館などで見ることができます。中尊寺にも桃山期の秀衡椀が所蔵されています。

  旧衣川村増沢地区は、もともと漆器の産地として県内でも有数の産地で、民藝運動の創始者・柳宗悦が「塗りが正直で手堅い」と絶賛したこともあり昭和初期はとても盛んな産地でした。現在ではここで秀衡椀が造られていたという説も有りますが、確証はありません。その増沢地区も、ダムの建設によって漆器を作っていた人たちも様々な地域に分散してしまいました。

 浄法寺と秀衡の謎は深まるばかりです。

 

(秀衡椀と伝わる古椀)
 


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