浄法寺椀について   

 田中庄一氏によれば、戦国時代に近江の君ヶ畑系の木地挽きが浄法寺にら来住し、浄法寺氏に仕えて多彩な椀を作った。しかし、慶長3年(1803)には浄法寺氏は南部利直によって取りつぶされ、領地没収となったのだが、浄法寺湾の製作は中断しなかった。南部氏が盛岡に築城してから幕末までの約300年間、椀作りを浄法寺通りに命じていたという。

 浄法寺椀の原木には、ケヤキ・ホオ・トチ・ヤマグワ・ハン。ブナ・ヒノキなどが用いられた。

 東北本線の好摩駅から花輪線に乗り換えると、七番目の駅が赤坂田である。ここで南部藩御用の椀木地が作られた。さらに二つ目の駅が荒屋新町で、ここから福岡町まで安比側沿いに鹿角街道続いており、浅沢は昔から椀の産地として知られていた。さらに北西に進むと浄法寺町に出るるのだが、このあたりはかつて浄法寺通りと呼ばれ、ここから産する箔椀(薄椀)は御留物(御禁制)として他領への流出をきびしく差し止められていた。

 たとえば正保二年(1624)六月二十日付の文書に、箔椀とその木地は、先年から御留物になっているから、もしわき道をかくれ通って他領に持ち出そうする者があった時、その者をとらえて差し出せば褒美を下さるであろう、という通達が残されている。したがってこれは、十七世紀中頃以前から浄法寺箔椀の評判が他領でも高く、ひそかに持ち出される場合が多かったという証拠になるであろう。

 秀衡椀の産地については諸説があり、まだ明らかにされていないようであるが、秀衡椀とは古い時代に浄法寺通りで産した椀のことであり、古式箔椀とも呼ばれていると、田中氏は述べている。

 また、浄法寺椀といわれているものには二通りあり、一つは江戸時代初期の古文書に出てくる三ツ椀、四ツ椀である。これらは三ツ重ね椀、四ツ重ね椀ともいわれ、ゴキと呼ばれた庶民用の塗り物であった。

 他の一つは、箔椀と称されたもので、南部家の定紋が入っており、浄法寺通りから盛岡城へ献上される以外は、製作、使用、販売は一切許されぬ禁制品であっったという。

(平成2年5月発行「目の眼」5月号より引用)



 


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