カシオペア連邦と西郷隆盛



(西郷隆盛の肖像画)


古代よりカシオペアの地は、一言でいえば中央政権に対する抵抗の歴史です。
古くは爾薩体の族長・伊加古が有名です。伊加古は、最近脚光を浴びている阿弖流為と並び称される古代みちのくの族長です。
平泉の奥州藤原氏につながる安部貞任の一族も、元々はカシオペアの大地を本領としていたようです。
カシオペアの大地を流れる安比川、大字名に見られる安比はその名残とも考えられます。
彼らは天台寺を造るほどの文化的教養を持っていたといわれています。
最終的に平泉の繁栄を築いたのは「安比」の血でした。

中世になると九戸政実が出現します。
政実は豊臣秀吉が国内を統一するにあたり最後に抵抗した戦国武将です。
浅野長政や蒲生氏郷といった一流の武将に対して一歩も引かなかった強者でした。

そんなカシオペアの強者たちですが、実は中央に対する抵抗ばかりではなく開明的な進取の精神を持ちあわせていました。
呑香稲荷神社の神官小保内孫陸もその一人です。
その孫陸の子である定身は、天保5年(1834)に生まれました。
成長と共に盛岡に出て国学を学び、安政3年(1856)23歳の時に江戸へ勉学に登ります。
この頃は尊王攘夷論が盛んでした。定身もまた勤王の志あつく、志士の間を往来し多くの士と交りを結ぶ機会を得るのでした。
特に長州藩の久坂玄瑞や江戸の安積五郎、川本正安と交遊が深くなったのはこの頃のことです。
江戸で学んだ定身は安政6年の秋郷里に帰ることにしました。26歳の時です。

これより先、安政5年(1858)、たまたま長州の小倉謙作、松島剛蔵が福岡にやってきます。
小倉は萩の俊才で、吉田松陰や桂小五郎(木戸孝允)の親友であり、定身とも知友の間柄でした。
小倉は孫陸と計って福岡の青年士族を集めて結社をつくり、これに会輔社と命名しました。
これは論語の「文ヲ以テ友ト会シ、友ヲ以テ仁ヲ輔ス」から引用したものでした。
当時の社員は14名、社長は孫陸と岩舘民弥の二人で、現存する茶室の槻蔭舎が会場でした。
小倉は異様な熱心さで経文を講じたと伝わっています。

しかし翌年10月、吉田松陰刑死の報が伝わるや、「次は余の番なり」といって、北海道に去って行方をくらまします。
まもなく帰郷した定身は、彼の残した詩文を読んで感激します。
定身は時下の急務は人材の育成であると、勤王の諸士と往来しその志を深めると共に、青年の指導に専念しました。
こうしてカシオペアの地にも勤王思想の一拠点が築かれたのでした。

小保内定身は西郷隆盛とも交流があったと伝わります。
西郷隆盛は紛れもなく明治維新の主役の一人です。
文政10(1827)年12月7日、鹿児島城下加治屋町の下級士族の家に生れます。
家が貧しく18歳の時に郡方書役助をつとめて家計を助け多用です。
大久保一蔵・有村俊斎(海江田信義)らと「近思録」を読み、陽明学を学び、師について禅を学びます。
幕末期の農民の窮状にじかに接し、封建社会への疑問を抱いたのでした。

安政元(1854)年に中御小姓となり、藩主・島津斉彬に従い江戸に出て庭方役として仕えます。
その間水戸の藤田東湖、越前の橋本左内らの名士と国事を談ずるほどに成長しました。
この頃は、ペリーの渡来により国情騒然たる時期です。
斉彬の命により京都・江戸の間を往復し、将軍継嗣に一橋慶喜擁立の運動に奔走しますた。 
しかし井伊直弼が大老に就任し、安政条約調印、紀州の慶福を将軍継嗣に決定して反対派弾圧のために安政の大獄を起しました。

安政5(1858)年、斉彬の病死にあたり殉死を考えます。
安政5年11月、月照と共に錦江湾に身を投じましが、隆盛だけ蘇ます。
生し菊池源吾と変名をつけられけ奄美大島に流されます。
当地で蟄居のあいだは地元の過酷な砂糖取り立ての惨状に抗議し、代官相良角兵衛に行政改善を訴えてこれを認めさせています。

3年後の文久2年召還されて帰藩し、大島三右衛門と名乗り徒目付・庭方兼務となります。
このとき藩主忠義の実父久光が藩内の尊攘派を押さえ、朝廷と幕府に薩摩の国威誇示を画策しようとします。
隆盛はこれを無視して上洛し、そのことが原因で光久の逆鱗にふれて6月に徳之島、次いで南の沖永良部島に流されました。

2年後の元治元(1864)年2月に赦され、7月の蛤御門の変(禁門の変),第一次長州征伐では薩摩藩代表として陣頭指揮をとります。
この功により藩から西郷復姓を許さました。

第二次長州征伐の起る頃、土佐の坂本龍馬の斡旋により長州藩の木戸孝允らと薩長連合の盟約を結びます。
慶応3(1867)年に武力討幕の方向をとり12月9日の王政復古の大号令を出します。
続く明治元(1868)年正月の鳥羽伏見の戦いで幕府を追い込み、やがて大総督府参謀となって東下しました。
幕府方の勝海舟と折衝して江戸城の無血入城を実現しました。
戊辰の内乱終息後、明治2年に王政復古の功臣として賞典禄永世二千石を賜ります。
正三位にも叙せられたが帰藩し鹿児島藩大参事となって藩政改革に当たりました。

明治4(1871)年に上京して参議となり廃藩置県を断行し、陸軍元帥兼近衛都督・陸軍大将に就任します。
明治6年、征韓論が起ると自ら遣韓大使になることを主張します。
しかし米欧巡回から帰朝した岩倉・大久保らの反対によって敗れ、同志の参議板垣退助・江藤新平らと下野して鹿児島に帰ります。

明治7(1874)年6月、士族子弟の教育のための賞典学校,吉野開墾社などの教育機関「私学校」を創設しまします。
しかし私学校内には篠原国幹の監督する銃隊学校,村田新八の砲隊学校が組織されていました。
その経費自体も鹿児島県庁から公然と支出されていたため、これらを政府は危険なものと考えます。
明治10年に西南戦争が勃発します。
薩摩は桐野利秋,篠原国幹らの主導により戦闘が行われ、隆盛自身は一度も指揮をとることなく黙って彼らに従ったと伝えれています。
西郷は9月24日に城山で自刃します。享年51歳でした。
この役に関わったため官位を失いますが、明治22年に正三位に復し明治35年には嗣子が侯爵になります。
墓は鹿児島市上竜尾町浄光明寺にあります。 まさしく維新の最大の功労者といえます。

西郷隆盛といえば上野の銅像や教科書に載っていた肖像画を思い浮かべますが、実はそれらは西郷本人ではありません。
それどころか西郷隆盛の写真は1枚も残っていないのです。
明治32(1899)年、銅像の除幕式に列席していたイト未亡人は、「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったそうです。
この発言については、当時の士族が膝までの着物に兵児(へこ)帯という格好はしないと言う意味だったという説と、単純に顔が違うという意味だったとする説があります。


(永山弥一郎の写真。隆盛の影武者と言われている)


いずれにしてもこの銅像の作者高村光雲は一度も西郷とも面識はなく、イタリア人の画家キヨソネが描いた肖像画をもとにしていて製作しています。キヨソネも西郷本人の面識はなく、西郷の弟の従道などをモデルにし、身内の人に聞いた話をもとに描いたものだったそうです。
このほかにも西郷の肖像は残っていますが、どれも死後に描かれたもので、結局西郷がどんな顔をしていたのかはわかりません。
写真に着いては西郷のものだといわれているものが何枚か存在しています。
特に口髭を生やしてフロックコートを着た写真がよく見つかっています。
これは西郷軍の部下だった永山弥一郎という人物の写真らしいと言うことがわかっています。
当時は現在のブロマイドのように明治の元勲の写真が売られ人気がありました。
どうも永山の写真が西郷のものとして売られ、本人の顔がわからないため本物として出回ったようです。
なぜ永山の写真が使われたかについてもいろいろな説がありますが、影武者だったともいわれています。
結局西郷の本当の顔は謎に包まれたままのようです。

エドアルド・キヨッソーネはイタリアジェノバ生まれで、1875年(明治8年)に明治政府大蔵省紙幣寮の招きで日本にやってきました。
紙幣印刷の技術を日本に教えるためです。彼は彫刻師で銅版画家として才能がありました。
彼の指導により我が国の紙幣、切手、証券証書など本格的な印刷技術が根付いたのです。
キヨソネは紙幣や切手以外にも、明治天皇や西郷隆盛など明治の高官の肖像版画を制作したことでも知られています。
特に明治天皇と西郷隆盛の肖像版画は、今でも我々が思い浮かべるイメージの元となっている作品です。
教科書にも載せられているため、西郷隆盛はあのような風貌であると人々の心の中に定着しています。
しかし、その肖像画は弟の西郷従道と隆盛の親戚である大山巌の合成です。
西郷の妻でさえ「顔が違う」と言っても、どういう理由かはわからないけれど西郷のイメージは人々の間に定着してしまったのでした。


(エドアルド・キヨソーネ(1833-1898)



平成15年8月、各新聞に「西郷隆盛の肖像画発見」の見出しが載りました。地方紙にも掲載されてので記憶の方も多いかと思います。
内容は下記の通りです。

明治維新に活躍した西郷隆盛(1827〜77年)の肖像画が、大分県日田市で見つかった。
幕末・明治期に日田で文人画家として活躍した僧侶の平野五岳が掛け軸に描いたもので、西郷に面会を申し込む内容の漢詩も記されている。
西郷の写真は残されておらず、肖像画数点も伝聞をもとに描かれたとされる。
掛け軸は五岳が直接会って描いたとみられ、鹿児島県立歴史資料センター「黎明館」(鹿児島市)は「貴重な史料」と評価している。
掛け軸を保管していたのは五岳研究家として知られる日田市在住の川津信雄さん(73)。
10年ほどまえに骨董(こっとう)品店で見つけて買い求めたという。
河内昭圓・大谷大文学部教授が調査。
肖像画に描かれた「丸に十字」の薩摩藩の紋付き羽織が、西郷南洲顕彰館(鹿児島市)で保存されている遺品の紋付き羽織と同じと見られると判断した。
肖像画は上半身で、顔にはうっすらと彩色が施されている。
漢詩は、五岳が西郷にあてた書簡。西郷が在野の身でありながら天下を思う気骨をたたえ、「お会いしたい」と申し入れている。
書簡の日付は明治9(1876)年10月で、西南戦争の4カ月前。同月、鹿児島を訪問した五岳は、西郷の蜂起を思いとどまらせるよう明治政府の大久保利通から依頼を受けていたといわれる。
これまでは五岳は西郷に会えなかったとされてきたが、川津さんは「五岳は書簡の原文を手元に残したうえで鹿児島で直接西郷に会い、後にまとめて掛け軸に残した」と推測している。
河内教授は「漢詩の書体などからみて五岳が80歳前後のころではないか。
明治21〜22(1888〜89)年ごろで、西郷の名誉回復がなされる時期と符合する」と話している。



(平成15年に発見された西郷隆盛の肖像画)


この記事を見たときにある写真を思い出しました。
その写真に写っている人物の目元と、新聞に掲載されていた肖像画の目元が何となく似ていたのでっす。
そしてその写真は、もしかしたら会輔社と関係のある人物と西郷が写っているかもしれない写真でした。
その写真は平成2年頃に八戸市で行われたフリーマーケットで見つけたものです。
そのフリーマーケットに、古い書物や古道具を出展している人物が居たのです。
古いカメラやラジオに興味のあった私は、何点かの古道具や書物を購入し、それ以外にも何か掘り出し物がないかと古本などを物色していました。
その時に1枚の写真が目にはいったのです。
出店者の親父さんは私に向かって言いました。
「その写真に写っているのは最後隆盛だ」
私のイメージしている西郷隆盛はその写真には写っていませんでした。
しかし、私の興味を引いたのは、西郷隆盛という響きよりも実は写真の裏に書いてある文字でした。

・ 西郷隆盛 隆道・西郷吉之助 隆永・生保○會輔舎 (○は紙がはがれて読めない)

会輔社の文字が私を惹きつけました。
出店者に譲ってくれるように頼んだのですが、どうしたわけか応じてくれません。
仕方なく
コピーをさせてくれるように説得し、近くのコピーショップでカラーコピーしたのです。
写真の詳細を聞いたのですが、俄には信じがたい内容でした。
西南戦争に呼応して挙兵を企てた南部藩士の関係者(三戸町か田子町の旧家)が所有していた写真だというのです。
 
一般的な知識として南部藩は佐幕派であり、薩摩や長州から見れば賊軍なのです。
敗者の南部側から見れば、決して彼らと呼応して挙兵することはないと考えていたのです。
ところが幕末期の会輔社の薩摩や長州藩士との交流、明治維新後に版籍奉還をいち早く成し遂げた賊軍南部藩の動き、
田子町で西南戦争に呼応して挙兵しようとした真田事件などを調べるに従い、
会輔社のメンバーと西郷隆盛が一緒に写っている写真が存在しても不思議ではないと確信するに至りました。

真田事件とは、1877年(明治10年)に西南戦争が起こったときに田子の真田大古が兵を挙げてこれに呼応しようとした事件です。
このときの会輔社の代表は小保内定身でしたが、彼にもいろんな方面から誘いがあったようです。
しかし彼は「私の体を投げ打つのに勧誘は受けない西郷が 皇室に対して不忠の心があれば別だが、だた政府内の意見が異なったものである。」と言って血気にはやる社員をたしなめたそうです。

写真について調べた範囲で説明すると、
1 右のブーツ履いている人物が西郷隆盛と記されている。永山弥一郎で西郷の影武者と言われている人物です。
2 中の立っている人物が西郷吉之助と記されている。吉之助とは隆盛の別名なはずなので判断に迷います。
3 左・小保○○ 会輔○と記されて人物であるが、会輔社の小保内某と想像されます。



もしかしたら、定身は西郷に蜂起をを思いとどまらせようとして会輔社から使者を出したのかもしれません。
情報収集だった可能性もあります。多くの可能性を1枚の写真は語りかけています。

最後に西郷関係の画像を紹介します。

一時期は西郷の写真と言われたモノ。
右から2番目が小田原瑞煤iおだわらずいか)という島津家の医者説が有力。



江戸末期に出された人相書



永山弥一郎の写真。前列の向かって右側。




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消された「西郷写真」の謎: 写真がとらえた禁断の歴史