最後の八戸藩主は薩摩と繋がっている  (平成29年6月25日)

最後の八戸藩主南部信順は、薩摩藩主・島津重豪の十四男として生まれる。幼名は虎之助、篤之丞。初名は久命。天保9年(1838年)に八戸藩の第8代藩主南部信真の婿養子として迎えられる。

重豪の息子たちの養子先は、中津藩や福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩で、2万石しかない小藩八戸藩への養子は異例であった。

信順は有名なお由羅騒動では、島津斉彬が薩摩藩主を継ぐよう実兄の黒田斉溥とともに尽力した。

なぜ島津重豪が、北辺の小藩八戸藩へ五男信順を養子にやったのかはよくわからない。薩摩からから八戸へというと、遠隔地の縁組のように現代人には思えるかもしれないが、すべて各藩の江戸屋敷が舞台だったのである。だから鹿児島から八戸でもあり得ることだ。

婿入りして30年後、戊辰戦争に遭遇し、奥羽列藩同盟の一員として実家島津家の軍を迎えることになる。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、八戸藩は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けることとなる。

信順の実家が列藩同盟の敵方・薩摩藩であったために最初から仮想敵として見られていたからであった。信順は列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方で官軍側に立った久保田藩と密かに連携するなど、この難局を上手く乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功した。


八戸南部藩は戊辰戦争のとき奥羽越列藩同盟に加盟しながら、薩摩藩島津氏からの情報で天皇方につくべきか藩内で議論していたと思われる。この消極的な態度が結果的には幸いした。戊辰戦争では一応は奥羽越列藩同盟へ加入し、野辺地戦争に参加したが戦後処理においては私闘とされ懲罰の対象にはならに済んだ。

明治2年(1869年)622日には八戸藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により知藩事職を辞任。同年に家督を長男の栄信に譲った。翌明治5年(1872年)に死去、享年59

以前に、会輔社と薩摩との連携の可能性に言及したが、幕末の八戸南部藩の動向は「西郷写真の謎」を解く鍵になるかもしれない。



戻 る

田中舘愛橘ものがたりーひ孫が語る「日本物理学の祖」ー (ジュニアノンフィクション)
古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895−1945