兼興の椀 (平成29年12月9日)

○会津塗は岩代国会津郡若松町に於いて製する所のものなり。天正十八年蒲生氏郷、会津の領主となる。氏郷漆工に命じて、創めて南部椀に模擬して以て漆器を製しむ。是を会津塗といい、其の椀を会津塗といい、其の椀を薄椀と云い、其の盆を薄盆と云う。其の中に或いは抹金の描画を少しく施して、製を南部塗と異にせる者なり。

 この記述を読んで小学校時代に聞いた話を思い出した。
 確か小学校の5年生頃だったと思う。郷土史にも造詣の深かった深かった稲葉浅吉校長が、浄法寺と平糠について語った。

 中世の平糠には浄法寺氏の一派がいて、砂金や漆を採取していた。天台寺の寺領もあり漆塗りの椀なども造っていた。平糠の南方には姉帯城があり、そこの大将も漆塗りの椀が気に入り日常から愛用していた。
 天正年間、豊臣の軍勢が九戸城攻略に奥羽街道を北進してきた。
 姉帯城の城主姉帯兼興とその一党は九戸方に参戦し、蒲生氏郷軍三万人に対してわずか五百で奮闘し蒲生軍苦しめた。
 姉帯城を攻め落とした蒲生氏郷は、姉帯城内で見事な漆塗りの椀を見つけた。どこで造ったかを村人に聞いたところ、平糠の長者で造ったとのことであった。
 九戸城を落城させた氏郷は、会津に帰郷する際に再び平糠を訪れた。漆工職人を連れ帰るためである。この際に数名の職人が会津に移住した。

 この話は40年以上前の朧気な記憶である。この時の稲葉校長に話を裏付けようと図書館などを回ったが、明確な資料は見つけられなかった。
 浄法寺氏の祖阿闍梨重慶の伝説は平糠にもあることから、平糠の漆工も全くの荒唐無稽な物語でもないような気がする。
 果たして姉帯城主の使っていた椀はどんなモノであっのか。想像すると楽しい。名付けるとしたら「兼興椀」だろう。
 


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