明治から昭和中期の市日風景 (平成29年12月17日)

(参考文献 高橋九一 むらの生活史)

 時々沿岸からやってくる行商人だけでは、とき日常生活には事欠く。やっぱり地元の商店に依存しなければならない。明治の末ごろ、現在の三万都市福岡は7000戸足らずの田舎町で明治の初めには、数軒の店があるにすぎなかった。
 アメリカの動物学者で日本研究家のモースの箸「日本その日その日」という旅行記の中にこの福岡について次のような記述がある。

 「福岡という村は広い主要街道の中央に小さな庭園がいくつも並び、そして町が清掃してあってきわめて美しかったことを覚えている。この地方の人々は目が淡褐色で南方の人々よりもいい顔をしている。」

 この町に寛文九年の市日の事を書いた文書がある。市に出た物というのは、塩とか粟、葉たばこ、稗、そば、大麦、大豆など、近在の農家からの食糧が主であったが、凶作の年は市日が立たないことが多かった。

 安政四年、御返地村の肝煎りの覚え書きによると、いろんな買い物をしている。例えば、たばこ20縄、ニシン一丸、糀四升、干し鰯、焼き麩、にんじん、百合、砂糖、塩引、笠、雪合羽、手拭い、たこ帽子、木綿布、浅黄、夜着、鍬二丁、草刈鎌、包丁一丁、茶碗十二、針六十本、富山薬などとなっている。これは肝煎りだからこその買い物で、とても一般百姓が日常でこういう買い物をしたわけではない。

 福岡の松盛という市掛け商人の市掛帳に記されている商品を見ると、膳椀、三重、四重、杯、ひしゃげ、箸などの塗り物が主で、北上山地を越えた村の市日には馬で運んだらしく、熊蔵という者に度々駄賃を支払っていることが書いてある。

 周辺の農家では、」町から物を求めることよりも、大事なことは、稗とか大豆とか蕎麦を売って現金収入を得ることであった。明治の頃には、町には米穀商というものは無かった。近在の百姓が稗を売るために、町に一定の宿を決めて売る方法をとった。これを市子宿といった。

 明治二十四年に東北本線が開通すると、他所の市掛商人が入り込むようになった。昭和の初め頃になると、商品の種類もしだいに増え、にんじん、ゴボウ、大根、甘藍、なす、胡瓜、南瓜なども露天に並ぶようになった。この地域の農家の栽培技術が進歩した証拠である。




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