塗師のむら」 (平成30年1月7日)

 八幡平西に約五キロ、ここから安比側の源が発している。この源ちかくに赤坂田というむらがある。昔は川に沿って、幅五、六尺の道があったが、明治二十五、六年頃に県道となった。現在は花輪線の「あかさかた」駅があるので、面目は一新した。皮に沿う水田から米がとれるようになったのは、昭和二十年以降のことで、それまでは稗を作つけていた。ものむらの人々が、全く稗を食わなくなったのは、昭和二十七、八年ごろからのことである。「もとむら」の荒屋新町の人たちからは、「赤坂田のマス」と軽蔑されていた。マスとは猿のことである。むらの人たちもそういわれると仲良くなるはずはないので、結婚圏も隣の郡まで伸びていた。

 近ごろ急速に住宅が改造されたり、新築されたが、そういう近代的な建物の中に、小さな古い土蔵が残されている。これが塗師の仕事場であり、塗り物の乾燥場である。

 隣村の門崎も、この村と同様に塗師のむらであった。この地方で有名な浄法寺椀こういうむらからつくりだされたものである。荒澤村産南部塗の沿革によると、次のようになっている。

 「この漆器は、浄法寺町の天台寺の衆坊がこの技法を伝習したのが秀衡以前のことであろう。次いで衣川の没落者が荒澤村の浅沢地方に来住して、次第に同業者ができるようになり、生産品は天台寺の参拝者に供給した、というのが草創期で、その後南部塗というようになり、その後次第に販路が広がり、その名称が御山御器とか、浄法寺御器と呼ぶようになった。この御器が盛んになったのは寛文から享保までの七十年間で、地元にも問屋ができるようになったが、重要がふえるようになると、粗製濫造となって信用を失うものもできるようになり、それに、宝暦、天明の凶作で打撃を受けたが、文化文政の時代には再び盛んになり、明治になると販路が北海道までおよぶようになった。」

 というのだが、これが昭和三十四、五年ごろに現れたベークライトの前にひとたまりもなく、この長い歴史を閉じなければならなかった。

 この浄法寺椀というのは、一般の農家が毎日使う物であった。だから需要も多かった。農家では、この椀のことを三ツ椀とか鉄鉢椀などといって愛用していたが、大正の末頃に茶碗が入り込んできた。漆器と違って壊れやすいので、取り扱いに注意しなければならなかったが、模様とか色とか、大きさなどによって、家族がそれぞれ個人別に使えるという便利さがあった。しかし現在でも、寄り合いのような人の集まるときの食事には、昔の浄法寺椀を使っているところが多い。

 明治十年ごろ、汁椀一枚一銭、三ツ椀が四銭であった。

 
(参考文献 高橋九一箸 むらの生活史





明治期の三ツ椀 (管理人蔵)


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