木地師のむら」 (平成30年1月7日)

木地師の村  (高橋九一箸 むらの生活史)

  赤坂田は塗師のむらでもあるが、木地師のむらでもある。このあたりでは木地師のことを「カタウチ」といっている。大正の頃このむらで五十人くらいの人がカタウチをやっていた。足の不自由な人が、他郡から弟子入りしていたところもあった。

木地の原木は奥羽山脈の国有林で、主にブナとかトチ、それにホオなどであった。この地方は、一晩に二メートルもの雪が降る豪雪地帯である。旧の正月がすむと、むらの人々は山に入って、適当な場所を選んで小屋をかけて、ここで五十日間ぐらい原木を伐採する。やがて雪解けとなり、安比川の水量が増すようになると、この水を利用して伐採した原木を流し、赤坂田で引き上げ、そこから自分の家までソリで運搬する。馬車で運搬するようになったのは昭和十七、八年ころからである。こうして自宅まで運びで、乾燥をふせぐため、落ち葉とかカヤで覆っておく。

隣接している門崎のむらでは、五部落の共有林でトチ、ブナ、ホオ、ハンノキなどを自由に伐採することができた。直径二尺以上のものになると、鋸で伐るのが厄介なので、それ以下のものを選んで伐採した。このむらの人達は山の掘っ立て小屋でカタウチすることが多かった。なかには宅地の近くにブナとか、ハンノキを植えて、それ利用するところもあった。

この地方に御用木地師の置かれたのは、天文のころで、承応、明暦のころには田山村に、寛文年間には浄法寺村に置かれるようになったといわれている。

ここで使う轆轤は最も古い形式の手回し式のものであった。木の心棒に手縄綱を巻き付けて、これをナビキト(綱引人)が引いて回転させると、心棒の先端に固定してある椀の型が回転するので、これを鉋で削るのである。これをやれる一人前の木地師になるには、四、五年から、五、六年はかかる。一日に二百枚から六百枚くらい削れるようになる。

この回転式轆轤を水力で回転するようにしたが、この七仕事に見切りをつけたのは、塗師と同様であった。木地挽きと塗師とは、不可分の関係にあったので、このむらの仕事はいっぺんに変わってしまったのである。




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