松岡洋右

 昭和16(1941)年12月8日朝、米、英との戦争突入の発表を聞いた元外務官僚の斎藤良衛は、外相を辞めて5カ月ほどの 松岡洋右を東京・千駄ケ谷の自宅に訪ねた。

斎藤は前年、松岡の外相就任で外務省顧問になり松岡の腹心と言われていた病気で伏せていた松岡は、斎藤を見るなり涙を浮かべこんな趣旨のことを語った。斎藤が戦後、著書『欺かれた歴史-松岡洋右と三国同盟の裏面』で明らかにしている。

 日本、ドイツ、イタリアによる三国同盟は、前年の昭和15年9月27日にドイツのベルリンで締結された。この同盟を日本側で推進したのが外相の松岡だった。

 この同盟は、ドイツが死闘を繰り返していた英国を仮想敵国としているのは明らかだった。英国や米国との関係を一段と悪化させるとして、米内光政前首相ら海軍を中心に反対も強かった。戦後も米英などとの戦争を招いた最大の元凶とされてきた。

 病床での松岡の言葉は、そのことへの悔悟であり言い訳でもあった。同時に当時の日本の中枢がいかに国際情勢を読み違えて いたかを示している。

 日本とドイツとはすでに昭和11(1936)年、防共協定を結びこれが翌12年、日独伊防共協定となっていた。共産主義の脅威に備えるとともに、ソ連を仮想敵国とした一種の同盟だった。


 三国とも国際連盟を脱退しているので、さらに強固な三国同盟としたいとの考えは、それぞれの国にあり交渉に入っていた。ところが14年8月、ドイツが突然「敵国」のはずのソ連と不可侵条約を結んだ。このときの首相、平沼騏一郎が「欧州情勢は複雑怪奇」と嘆いて辞任したことは有名だ。

同盟推進派が息を吹き返すのは、昭和15年7月に近衛文麿が2度目の組閣を行い、松岡が外相となってからである。第2次近衛内閣はそれまでと一転して「南進」政策を打ち出した。

南進すれば多分米英が黙ってはいまい。だが日本がドイツ、イタリアと強固な同盟を結べば、口を出せないだろう。

 松岡は海軍などを説き伏せ、就任後わずか2カ月余りで、調印にこぎつけた。松岡らの自信の背景には、大戦でのドイツの「快進撃」があった。

 ヒトラー率いるドイツは昭和15年9月にポーランドに侵攻、これに対し英国、フランスが宣戦布告し第二次大戦が始まった。半年ほどは膠着状態だったが、昭和15(1940)年4月から、ドイツはノルウェー、オランダ、ベルギーなどを次々と落とし、6月にはフランスのパリが陥落した。

この時点で松岡は、ドイツの世界大戦での勝利は間違いなく米国も手が出せないと思ったのだ。

 だが米国は逆に日本の南進に対し、当初は屑鉄などに始まり、昭和16年には石油の禁輸という強硬な姿勢に出た。さらに追い詰められた日本が真珠湾などを攻撃したのを機に欧州戦線にも参戦、日独伊三国を打ち破ることになる

松岡の誤算は、ドイツが昭和16年6月にソ連に攻め入ったことである。ドイツとソ連との良好な関係からソ連を含めた四国同盟を夢想していたが、これでもう一度ソ連の脅威にも備えなければならなくなった。

近衛は松岡に外交を「丸投げ」しており、陸軍も松岡の尻をたたいていた。マスコミも三国同盟を「外交転換ここに完成」(東京朝日)などと「前向き」にとらえたし、国民の多くも歓迎したのだった。

松岡は三国同盟締結から約半年後の昭和16年3月、ソ連、ドイツ、イタリアの各国を歴訪した。ソ連ではスターリン書記長と直接会談、日独伊ソ4カ国連携の重要性を訴え、日ソ中立条約締結につなげた。

この後、ドイツではヒトラー総統に四国同盟を提唱した。だがヒトラーはこれには全く関心を示さず、日本に対英国参戦、中でも英の植民地シンガポール攻略を強く求め、平行線に終わった。ヒトラーはこのときすでに、ソ連と戦う決意を固めていたとされ、松岡の構想が夢物語にすぎなかったことを示してしまった。

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