朝鮮国民を虐殺した李承晩  2

任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を提出します。これに対抗して野党は、議院内閣制案を提出します。承晩は、戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙します。これは釜山政治波動と呼ばれています。

昭和271952)年74日、国会が警察に包囲されている中、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決さました。この時期にアメリカは、戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考え始めたと言われています。国民防衛軍事件や居昌良民虐殺事件によって、韓国陸軍本部では李承晩に対する反感が高まっていたことも背景です。

李承晩は、昭和28(1953)15日から17日の間、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将の招待という形で非公式に訪日し16日にクラークの公邸で吉田茂首相と約1時間対談しました。内容は未だに明らかではないが険悪なやり取りであったとされています。

昭和281953)年、膠着した朝鮮戦争について国際連合主導による休戦提案が出始めます。李承晩は、「停戦反対、北進統一」、「休戦は国家的死刑」を口にして最後まで休戦に反対し、「北進統一論」に基づいた朝鮮半島の大韓民国による統一にこだわります。しかし、国連は粛々と休戦への道筋を作り、68日に両軍の捕虜送還協定が締結されました。すると李承晩は、618日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留捕虜25000人を北へ送還せずに韓国内で釈放するという事件を起こしました。正式に決まった協定を反故にする暴挙だったことから、国際世論の非難が高まった上に、北朝鮮内の中国人義勇兵(抗美援朝義勇軍)の全面撤兵を要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカと激しく対立しました。

昭和291954)年1014日には、韓国の生徒達へ日本帝国主義の侵略性とその韓国への悪意を教えるよう命令したとされています。これは韓国経済の独占を望む日本の陰謀への対抗措置で、教師・大学教授に命じて生徒を激動させようとするものでした。]

当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていたにもかかわらず、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は、「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出します。1127日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になります。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だったのです。

わずか
1票届かず、改憲案は否決されるはずだったのですが、李派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言します。

 

昭和311956)年、80歳を過ぎた李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、民国党を中心とする野党勢力は「やってられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、「民主党」を結成します。

一方、自由党は「替えても変わらない、長老(李大統領)がマシ」というスローガンで対抗しました。

民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。

選挙直前の55日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の列車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされます。官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしましたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起こってしまいます。

高齢の李承晩に万一の事態が起これば、副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になる上に、次の大統領選で李が当選するかさえも怪しくなり、自由党は危機感を抱きます。同年928日には、退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件を起こし、昭和341959)年430日には張勉系の野党紙『京郷新聞』を廃刊処分させ、同年7月には前年に進歩党事件で逮捕した曺奉岩・進歩党党首を処刑するなど、徹底的な政敵潰しを行います。

 昭和341959)年124日には、北朝鮮の南日外相の呼び掛けに応じた日本政府による在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、李承晩政権は密かに日本に民団所属の在日韓国人と協力して、「北韓帰還阻止工作員」を送り込んで新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こします。

 1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。

この選挙では与党の不正工作は前回の大統領選挙よりも徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した

 1960315日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。

 同年411日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した(馬山事件)。

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、418日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌419日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(419学生革命)。

同年420日、ウォルター・P・マカナギー駐韓アメリカ大使(英語版)が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。423日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。

政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、同年425日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。このとき、学生代表5名と会見した李は「若者が不正を見て立ち上がらなければ亡国だ。本当に不正選挙ならば君たちの行動は正しい。私は辞職しなければならぬ。」と語り、覚悟のほどを示した。(金大中『私の自叙伝』)翌426日には、パゴダ公園にある李の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、漸く下野した。建国以来12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。2日後の428日に、養子の李康石が一家心中を図って李起鵬一家(実父母と実弟)を射殺、自らも命を絶った。

李承晩は1960529日早朝に妻とともに、金浦空港からアメリカ・ハワイに亡命した。韓国で李の見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだった。

1965719日、李はハワイの養老施設で90年の生涯に幕を閉じた。臨終に立ち会ったのは妻のフランチェスカ・ドナーと養子であった[47]。フランチェスカは承晩の没後、故郷であるオーストリアを経て1970516日に韓国へ戻り、1992319日にソウルにおいて92歳で死去しています。




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韓中衰栄と武士道  今こそ、韓国に謝ろう
  いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人