好球生の投稿

 野球の伝来が5年説の根拠として上げられのが、ペンネーム「好球生」の投稿である。それは明治29年7月22日の日本新聞社へ投稿であった。

 野球に熱中していた正岡子規が、7月19日から21日まで野球に関する連載記事を載せた。日本新聞に連載したモノへの反論であった。

 「ベースボールは素と亜米利加合衆国の国技とも称すべき者にして其遊戯の国民一般に賞翫せらるるは恰も我国の相撲、西班牙の闘牛抔にも類せりと聞きぬ。(米人の吾に負けたるをくやしがりて幾度も仕合を挑むは殆ど国辱とも思へばなるべし。)此技の我邦に伝わりし来歴は詳かに之を知らねども、或は云う元新橋鉄道局技師(平岡熙と云う人か)米国より帰りてこれを新橋鉄道局の職員間に伝へたるを始めとするとかや(明治十四、五年のころにもやあらん)云々」と正岡子規は書いた。


(好球生と一緒にプレイしたかもしれない石藤豊太郎博士)

 ところが7月22日に同紙にベースボールの来歴と題した長文の反証文が寄せられて、それには「好球生投」と匿名をつかっている。

 好球生は先ず子規の明治14、15年説を真向から否定して、「そもそもベースボールのはじまりは明治5年のころなりし。今の高等商業学校のところに南校という学校あり。明治5年ごろは第一大学区第一番中学と名付けて唯一の洋学校なりしが、英語、歴史などを教ふるウイルソンと云へる米国人あり。この人常に球戯を好み体操場に出てはバットを持ちて球を打ち余輩にこれを取らせて無上の楽みとせしが、やうやくこの仲間に入る学生も増加し、明治6年第一番中学の開成校と改称し、今の錦町三丁目に広壮の校舎建築成り、開校式には行幸などもあり、運動場も天覧ありしくらいにてひろびろと出来たりし事故以前に変りて体操の方法も拡張し来り、兵式体操器械体操などもはじまりたり。かのウイルソンは米国南北戦争に出でたる人とて、兵式機械体操なども仲々によくやりたり。各学生もこれについて大分学びたり。このころよりいつとなく余輩の球戯も上達し、打球は中空をかすめて運動場の辺隔より構外へ出る程の勢を示せしが、ついには本式にベースを置き組を分かちてベースボールの技を始むるにいたれり。
 されどはじめの事とてその業の見るべき程の事なかりしが明治七、八年に至りては非常に発達し、ついにある人の紹介によりて横浜の米国人と試合をなしたる事も度々なりし。八年九年のころは校内毎土曜日には球技盛んに流行し見物人も山をなして外人と戦う時などは非常の人気なりし。」

 好球生はこう書いてから、当時親しくボールを握った人々の名を挙げている。中に元京都大学総長をつとめた久原躬弦理博、京大教授で京都高等工芸学校長だった中沢岩太工博、内務省技師だった青木元五郎工博、元宇治火薬製造所長石藤豊太工博等々。中でも異色だったのは来原彦太郎(のちの木戸孝正侯)大久保利和(のち侯爵)弟大久保伸熊(のちの牧野伸顕伯)等がいる。この三人は明治四年岩倉具視使節団につれられて渡米し、三年間フィラデルフィアのミドルスクールでベースボールの手ほどきをうけて帰り、牧野らは明治八年に開成学校にはいって来た。彼らはベースボールのボールを持ち帰っていた

 明治政府によって明治2年に大学校が作られた後、明治3年7月に主に国学を教える大学本校が設置された。しかし学派の対立から休校となった。
 続いて、洋学を教える大学南校、医学を教える大学東校が設置された。南校は明治5年の第一大学区第一番中学校となり、明治6年8月には東京開成学校と名を変えたのである。つまり、素直に解釈すれば、好球生氏は明治5年には第一番中学校に在籍していた人物の可能性が高いのである。


(野球に熱中した正岡子規)


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