開拓使仮学校 その1

 1872年5月21日(明治5年)、東京の芝増上寺に開拓使仮学校が設置された。北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、後に札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。

 初年度全生徒数は120名(官費生60、私費生60)で年齢により普通学初級(14歳以上20歳未満)と普通学2級(20歳以上25歳未満)に割り振り、後に専門の科に進ませた。同年9月には女学校(官費生50名のみ)を併設した。なお、官費女学生は卒業後に北海道在籍の者と結婚することを誓わせられた。

 この開拓使仮学校で、明治6年に野球が行われたという記録が残っている。記したのは大島正健である。大島は明治6年頃は東京外国語学校(東京英語学校)で学んでおり、札幌農学校には第一期生として入学した。卒業後も同校で教鞭を執り、後に同志社の教授、甲府中学校や宮崎中学校の校長を歴任した。甲府中学校時代の教え子に石橋湛山がいる。

 「米国帰りの牧野伸顕伯などが開成学校へ野球を持ち込んだのが明治7年の頃というが、開拓使仮学校生徒間に野球が行われたのは開校間もない明治6年のことであるから、この方が日本野球史の第一頁と申してもよいのではあるまいか。当時、何事にも器用で敏捷な伊藤一隆は同校で組織された野球チームの選手であった。本人が物語った当時の状況を次に書き記してみよう」



(『北海道デジタル図鑑』というサイトから大島正健氏の肖像写真をお借りしました)

 大島が何事にも器用で俊敏と紹介した伊藤一隆は、札幌農学校の第一期生として卒業。
卒業後は開拓使物産局に勤務する。以来ほぼ一貫して水産行政に携わる。魚の缶詰を作る技術指導のために来日したU.S.トリートから「鮭は人工孵化が可能で、アメリカでは実用化された技術だ」と教えられた。そして明治19年渡米し、メイン州バックスボードの孵化場で人工孵化技術を実地に学習した。そして明治21年、千歳川上流の烏柵舞(うさくまい)に日本最初の鮭鱒の人工孵化場「千歳鮭鱒孵化場」を設置した。インディアンが魚を捕獲する水車からヒントをえてインディアン水車と呼ばれている。

   伊藤一隆は、キリスト者としても明治15年に無教会主義の札幌独立教会を設立し、明治20年からは全国初の禁酒運動を指導して北海道禁酒会会長を務め、さらにイギリス宣教師バチェラーとともにアイヌ人保護にも尽力、明治27年の退官後は帝国水産会社や北大協会初代会頭としての活躍のなか新潟での石油開発も行なっている。また娘の松本恵子(1891-1976)はアガサ・クリスティーなどの推理小説や「あしながおじさん」「若草物語」などの翻訳家としてよく知られている。タレント・中川翔子の高祖父にあたる。


(開拓使仮学校跡地の記念碑)


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