開拓使仮学校 その3

 札幌農学校一期生の大島正健回想は続く。「クラーク博士とその弟子たち」の東京英語学校の章から引用する。

 「上級の学校であった開成学校とは垣一重の場所にあったが、同校では米人教師が故国から持ってきたバットとボールを提供して生徒に野球を教えた。そして野球は九人ずつチームを作って二組でやるものだということを教えられた。」

 「身につける道具は勿論なく、投手は腕をふりかぶって様々な魔球を投げたりするのではなく、直立して腕を腰につけ、球ころがしのようにボールを投げ出し、打者の望む高さに投げ込んでうまく打たせるのをもって上手としてあった。従って三振でうちとるなどは全くなく、すべて塁投であった。千石貢なぢが選手で、当時アメリカ帰りであった牧野伸顕伯などコーチをやっていた。」

 ここに出てくる「塁投」は不明。

 「垣根越しに開成校の兄弟子どもが行う球戯をみて、われら英語学校生徒どもはうらやましくてたまらず、「一撃風を生ず」という文句をほりこんだ手製のバットを振り回し、鉛の球に皮をきせたボールを作ってノッキングを始めたが、恐ろしく硬い球を素手で受けるのであるから負傷者続出、あまり起用でない私は飛球を受け損じて左の中指が曲がり、終生それが癒えずにおえてしまった。」

 この大島正健と東京英語学校で同級生なのが田中舘愛橘である。大島にとって田中舘は印象に残ったらしく、「クラーク博士とその弟子たち」にも登場する。
 出典は忘れたが、田中舘愛橘博士は牧野伸顕伯や来原彦太郎などと共に、ホーレス・ウィルソンから野球の手解きを受けていることが書かれている。
 想像でしかないが、開拓史使仮学校でベイツ先生が急死した後は、ウイルソンが」開拓使仮学校と開成学校に野球を指導したとは考えられないだろうか。
 もしかしたら、明治9年の日米決戦に参加した選手の手がかりになるかもしれない。



(田中舘愛橘博士は、昭和2年に甲子園に出場した郷里の後輩を激励しながら、自分も若い頃に野球をやったことを証言した。選手としてはあまり上手では無かったようだ)




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