明治9年の日米対決 その2

 明治9年の日米戦について書いたところ、ペンネーム「好球生の孫」と名乗る方からメールをいただきました。出典や資料は、今のところ返答いただいておりませんが、年齢や生没年なども教えていただきました。

一番(一塁)石藤 豊太          17歳 1859年-1945年
二番(左翼)野本 彦一          18歳 1858年-
三番(遊撃)山 元            18歳 1857年-1918年
四番(中堅)来原彦太郎          19歳 1857年-1917年
五番(右翼)田上 省三          21歳 1854年-     
六番(三塁)本山 正久          18歳 1857年-     
七番(捕手)木元五郎          21歳 1854年-1932年 
八番(投手)久米 祐吉           21歳 1854年-      
九番(二塁)佐々木忠次郎         19歳 1857年-1938年 

 審判は、ヴァン・ビューレン(当時の米国領事)がつとめたことも教えて下さいました。この試合に横浜から参加した人達は、いずれものちにヨコハマ・ベースボール・クラブの委員をつとめた熱心な愛好者だったそうです。

 前回の調査で、不明だったのが下の2名でした。
 3(遊)Hwogamaは青山元で、4(中)Kusahorra来原彦太郎はだそうです。
 

 青山元は越前国で青山貞の子として生まれます。慶應義塾に学び、のちに外国語学校開成所を卒業。1880年(明治13年)駒場農学校を優で卒業。
農務省を経て技手になる。東洋拓殖会社設立委員、農事に従事する一方、1904年(明治37年)に貴族院議員とななります。

 来原彦太郎は、明治維新の功労者木戸孝允の養子となり、木戸木戸孝正と名乗ります。野球の歴史を扱った資料にはよく出てくる名前です。

 この歴史的一戦に参加したメンバーの日記などを、もっと詳細に調べれば、もしかしたらこの試合の全貌が解るかもしれませんね。

(来原彦太郎。木戸孝允の養子となり木戸孝正を名乗る)


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嗚呼!! 明治の日本野球 (平凡社ライブラリー―offシリーズ) クラーク先生とその弟子たち